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元治元年9月6日(1864年10月6日)

【京】征長副将・越前藩主松平茂昭、率兵入京
【江】四国公使が条約破棄に関する警告&朝廷への事情説明・条約勅許獲得を求める

(9/5の主な動き)
【京】芸州広島藩、萩藩主毛利敬親の弁疏書及届書四通を、所司代に提出(所司代、8日に却下)
【京】幕府、泉涌寺に寺田300石を寄進


☆京都のお天気:時々陰暖気甚 (『嵯峨実愛日記』)

>第一次幕長戦
■征長副将上京
【京】元治1年9月6日、征長副将の越前藩主松平茂昭が、兵を率いて着京し、京都岡崎の藩邸に入りました。

(おさらい)
禁門の変後、在京勢は前越前藩主松平春嶽を征長副将として考えており、上京を促しました(こちら)が、春嶽はこれを固辞しました(こちら)。8月4日、幕府は、茂昭に副将を命じ(こちら)、越前藩はこれを請けました。茂昭の出陣を19日とし、その事前準備として、慶喜や在京老中に軍事に関する廟議を確認し、紀州藩等の討手の諸藩と協議などを行うために、中根雪江を京都に派遣しました(こちら)。ところが、16日、征長総督交替の知らせが届いたので(こちら)、茂昭の出発を一時見合わせ、名古屋に使者を派遣して軍務を協議させることにし、21日には改めて28日の出発を布達しました。ところが、27日、名古屋へ差し向けた使者が戻り、慶勝が病を理由に総督を辞退したため協議はできないとの返答だったと復命しました。茂昭が出陣しても、肝心の総督がいなくてはしょうがないとの議論もありましたが、既に諸藩に追討の命が発された今、たとえ総督が未定であるにせよ、副将までが出陣を遅らせては諸軍の人心に影響するとの議論もあり、やはり、予定通り出発し、上京の上、一橋慶喜や在京老中に「厳談」することに決し、28日に福井を出立していました。

参考:『続再夢紀事』三p286-287、309(2018/5/15)
関連:■「開国開城」30. 第一次幕長戦争■テーマ別元治1第一次幕長戦

>四国代表と幕府の協議(下関償金、他)
■下関償金条約

【江】元治1年9月6日、英・仏・米・蘭の四ヵ国代表が、老中牧野忠恭・水野忠精らと会して、下関事件の償金及同港開港について協議し、償金は戦費支給の名目で幕府が支払い、下関開港の件は、老中阿部正外が京都より帰府後に決定することを定めました。幕府からは老中牧野忠恭・同水野忠精の他、若年寄酒井忠16752 ・同立花種恭が出席。四ヵ国代表は、軍艦に乗って江戸までやってきたらしいです。

(経緯)四国連合艦隊は、8月6日に開戦した下関戦争で長州藩に勝利し、同月14日に同藩と講和条約を結びました。下関で勝利したことは、18日に横浜にもたらされ、その後、四ヵ国代表は外国奉行(竹本正雄・柴田剛中)と会見して、長州藩の外国船砲撃は、朝廷並びに幕府の命令(攘夷)によって行われたことを確認し、幕府が内外に相反する態度を改めなければ、直接朝廷と交渉する決意を示し、幕府が下関戦争に係る軍費の代償として、下関を幕府直轄領として開港する意思があるかどうかを確かめたそうです。一方、連合艦隊は20〜21日に下関を去り、一部が25日に摂海に進入して示威を行った後、横浜に帰港しました。(その報告を受けた)四ヵ国代表は、9月に入って幕府に面会を要請し、6日に牧野忠恭邸で会議をする旨を伝達されていました

※阿部正外は、8月6日に海路大坂より帰府しましたが、24日に再び上京を命じられ、30日に品川を出港していました(こちら)

関連:■「開国開城」28 横浜鎖港問題と江戸の政変、四国連合艦隊の下関砲撃事件 ■テーマ別元治1四国艦隊下関砲撃

■横浜鎖港問題
【横/江?】元治1年9月4〜6日、英・仏・米・蘭の四ヵ国代表は、幕府に対し、条約破棄は戦争を意味すると論じ(脅し)、朝廷への事情説明・条約勅許を求める書状を認めました。

(9月4日に米国が出した書状の原文が『稿本』にあったのですが「脅してるわけじゃないからね(=脅してるんだよ)」て書いてありました。アメリカ人って、わかりやすい!)

〇経緯
文久2年5月、英国において、幕府使節は、ロンドン覚書を調印し、江戸・大坂・兵庫・新潟の両都両港開港開市を1867年(慶応3年)まで5年間延期する約束をし、他国もそれに同意していました。ところが、幕府は、朝廷をはじめとする鎖港攘夷論におされて、横浜鎖港を提議するはめになり、そのために使節をヨーロッパに派遣しましたが、逆に、文久2年5月、英国において、幕府使節は、ロンドン覚書を調印し、江戸・大坂・兵庫・新潟の両都両港開港開市を1867年(慶応3年)まで5年間延期する約束をし、他国もそれに同意していました。

ところが、幕府は、朝廷をはじめとする鎖港攘夷論におされて、既に開港していた横浜の鎖港を提議するはめになり、そのために使節をヨーロッパに派遣しました。しかし、仏政府との交渉で横浜鎖港の困難を悟って交渉を打ち切り、それまでの交渉結果(@キンシャン号砲撃賠償、A下関通航、B関税軽減、C両国君主の調印なしの履行)を5月17日にパリ約定として調印していました(5/17)。使節団は7月22日に帰国、幕府に上書して復命し、海外の形勢を説き、鎖港の不可を論じましたが、幕府は、翌24日、条約の破棄を四ヵ国代表に通達していました(こちら)

参考:『維新史』四p264(2018/5/15)

関連:■「開国開城」28 横浜鎖港問題と江戸の政変、四国連合艦隊の下関砲撃事件 ■テーマ別元治1横浜鎖港問題(2)

【江】将軍徳川家茂、布衣以上勤仕並寄合・部屋住等の武芸を上覧。
【京】、近藤勇批判の建白書を会津藩に提出し、近藤の切腹か自分たちの切腹かと迫ったとされる新選組隊士6人の一人、葛山武八郎切腹。(壬生寺墓碑、『往詣記』)

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